『シン・エヴァンゲリオン劇場版』マリは結局何だったのか?本当に反応に困る作品
1995年にTVシリーズが放送され、社会現象まで巻き起こした『新世紀エヴァンゲリオン』。
2007年からは全4部作の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が新たに始動した。
4作目にして完結編に当たる『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が、2012年11月に上映された3作目の『Q』から8年の歳月を経て、2021年3月についに公開された。
本当に今作で新劇場版を終わらせることができるのか? そんな不安を抱えながらも視聴した結果は困惑。見終わった後、今作をどう受け止めればいいのかわからなかった。
これ以降ではネタバレについては割と自重しないつもりなので、まだ見ていない方は要注意。
- マリは結局何だったのか?
- マリは1人の人間というより何らかの象徴なのでは?
- ようやく真正面から向き合う碇親子
- 碇親子と対比させることで問題の生じたとある親子
- 碇親子とミサト親子の皮肉な対比
- 造語や新設定のオンパレードで頭が追い付かない
- 丁寧なニア・サード・インパクト後の世界描写
- 映像面は力が入っているが力の入り方がおかしい場面も
- 思い付いたことを書き殴ってなお反応に困る作品
マリは結局何だったのか?
真希波・マリ・イラストリアスは結局何だったのか? わかりません。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の終盤で、イスカリオテのマリアなる人物だと判明する。
しかしこのイスカリオテのマリア、どうも聖書に登場する人物ではないらしい。聖書の人物を組み合わせた今作独自の造語のようだ。
マリは碇ゲンドウを君付けするなど歳不相応な貫禄や伏線はあったものの、正直、唐突感は否めない。
また、そのイスカリオテ云々を踏まえてもわからないのが、なぜゲンドウたちの大学生時代にいたのか、なぜエンディングで碇シンジとくっついたのか。さっぱりわかりません。
作中の描写からすると、マリは物語を収拾させるための文字通りのデウス・エクス・マキナに思えた。そんなマリの箔付けのために、イスカリオテのマリアなんてたいそうな呼称が出てきた気すらする。
マリは1人の人間というより何らかの象徴なのでは?
さすがにレビューを書くうえで「マリの正体はわかりませんでした!」で終わらせるわけにはいかない。
ない知恵を絞っていたら、ふと「マリは1人の人間というより何らかの象徴なのでは?」と思い付いた。
それを踏まえると、エンディングで主人公の碇シンジとくっついたのも多少は納得できた。多少は。
まずシンジはエヴァの主人公である。そしてこれはエヴァに限らないが、多くの視聴者は主人公の視点で物語を見る。つまり、主人公のシンジは視聴者のアバターでもあるわけだ。
そんな我々のアバターが、イスカリオテのマリアなる宗教的な存在とくっついた。人間の枠組みを超えた、超越的な存在に愛されているわけだ。
こういう描写から、マリは神の愛(アガペー)、我々に注がれる愛情の象徴に感じた。それが新劇場版におけるマリなのかなと思った。
ただまあ、鶴巻和哉監督の寝取り発言を鑑みるに、脚本の人そこまで考えてないと思うよ。
ようやく真正面から向き合う碇親子
碇シンジと父のゲンドウはコミュニケーション能力に難があり、2人の親子関係は一般的なものとはかけ離れている。
TVシリーズから一貫してそのように描かれており、新劇場版でも同様だ。とあるゲームのような例外はあるが。
しかし『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の終盤で、碇親子はついに真正面から向き合って話し合うことになる。
そのときにゲンドウが「距離を取ることがシンジへの贖罪だと思っていた」的なことを言っていたが、それについては嘘をつけと言いたい。
碇親子と対比させることで問題の生じたとある親子
不器用で臆病な碇親子は、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の終盤でついに向かい合う。
それ自体はいい。だが他の親子の描写と対比させると、違うところで問題が発生した。
今作では他にも親子の描写がある。1つは委員長こと洞木ヒカリとその幼子の関係。献身的な母の愛が描かれ、アヤナミレイ(仮称)にも多大な影響を与えていた。
もう1つの親子関係の持ち主は、葛城ミサトである。ミサトといえば父への複雑な感情がTVシリーズでも描写されていた。
だが、今作では父との描写よりもまさかの息子との関係が際立っていた。息子の名前は加持リョウジ。そう、ミサトと恋仲だった加持リョウジとの間にできた息子だ。
どうも『破』の最後の時点で加持さんの子を身ごもっていたらしい。それっぽい描写あったっけ?
碇親子とミサト親子の皮肉な対比
葛城ミサトは加持リョウジ(少年)を愛している。しかし、リョウジ(少年)は自身の母のことを一切知らない。
空中戦艦AAAヴンダーの責任者という立場もあり、ミサトはリョウジ(少年)を自らの手で育てていないのだ。今作を一緒に見た友人はネグレクトと言っていたが、まあ立場を考えるとミサトの決断もわからなくはない。
ミサトは自身を母と明かさず、リョウジ(少年)周辺の協力者から写真をもらったり近況を報告してもらったりしている。
ミサトなりの愛情を示す描写はあった。勝手に想っているだけの想いなど、子供に伝わるわけがないだろう!?
リョウジ(少年)自身も、短い登場場面の中で健やかに育っていることが判明した。周りの人から愛されているのがわかる。
しかし、ミサトは最終的にリョウジ(少年)本人に自らの愛情を示すこともできないまま最期を迎えてしまう。ミサト親子はミサトの一方的な愛ゆえに向き合うことができなかったわけだ。
不器用で愛と呼ぶには複雑で重い感情を抱えていたものの、今作終盤でついに向き合うことができた碇親子とは対照的である。すごい皮肉だ。
造語や新設定のオンパレードで頭が追い付かない
これは『Q』の時点ですでに兆候があったわけだが、今作ではいきなり明かされた造語やら新設定が大量に出てくる。
それっぽい説明はされるものの、かみ砕くすきを与えてくれずに更なる情報を剛速球で投げ込まれる。あの情報群を事前情報なしで完全に理解できた人はいたのか、はなはだ疑問だ。
まあ、碇シンジ周辺の人間関係にだけ注目すれば、設定的な部分はスルーしても問題ないっちゃないのだが。
実際、アヤナミレイ(仮称)を筆頭に、メインの登場人物たちの掘り下げはかなり力が入っていた。
しかし、『Q』で強烈な印象を残したはずの鈴原サクラの複雑な感情は、描写が足りなすぎて本当に不自然に感じた。情緒不安定で近寄りがたい人としか思えなかったのは残念。
鈴原トウジの妹という立ち位置もあまり活かせていなかったように思うし。見た目と声はいいのに…。
丁寧なニア・サード・インパクト後の世界描写
『Q』ではニア・サード・インパクト後の世界はかなり断片的な情報しか出されていなかった。しかし今作では、空中戦艦AAAヴンダー以外の生き残った人々にも焦点が当てられた。
ニア・サード・インパクト後の世界で、不安や恐怖と隣合わせながらもたくましく希望を持って生きる人々の姿は非常に印象的だった。
また、情報として描写するだけでなく、アヤナミレイ(仮称)を筆頭にメインの登場人物たちにも大きな影響を与えていた。
大人しいながらも好奇心旺盛なアヤナミレイ(仮称)の姿に魅了された人は多いのではないだろうか。だからこそ、アヤナミレイ(仮称)との別れがより強烈なものになるのだが…。
映像面は力が入っているが力の入り方がおかしい場面も
要は旧劇場版のような前衛的でシュールな描写があった。
序盤からかっこいいとは言いづらいメカデザインもあるにはあった。それでもデザインセンスはともかく、終盤までは力の入ったCGや作画で映像としては評価しやすい。
けれど終盤は本当に旧劇場版のようなとんでも映像群がこれでもかと出てくる。ある意味エヴァらしいし、そういうのを期待していなかったというと正直嘘になる。
でも、アニメ作品としてはやっぱり評価に困る。そういうシュールな映像がなかったら物足りなく感じていただろうし、あったらあったで反応に困るんだけど。
我ながら面倒だなと思うが、それもこれも旧劇場版ではっちゃけた庵野総監督が悪い。
思い付いたことを書き殴ってなお反応に困る作品
今まで思い付いたことをいろいろと書き殴ってきたわけだが、やっぱりまだ整理がつかない。個人的には、本当に反応に困る作品だった。
途中の描写自体はともかく、エンディング自体はわかりやすく前向きだった。きっちりエヴァを終わらせたという意味では評価できる。
だが、描写不足やキャパオーバーするほどの情報量、さらには個人的に納得できない部分もあるため、まだまだ消化できていない。賛否どちらにしろ、時間が経てばこの困惑も整理がつくのか。
エヴァの新しい決着を見たい人は見るべきだと思う。だが、癖が強すぎて一筋縄ではいかないことだけは理解しておいたほうがいいだろう。